コロナ禍に見舞われた2020年3月からすでに、丸4年以上の歳月が経ってしまいました。米国国立公文書館の状況もすっかり落ち着き、予約制度は今も推奨されていますが、今年2月以降は、予約なしでも入館できるようになっています。今後もこの状態が続くようにと願っています。
さて、2か月ほど前のことですが、たまたま目にした、東京都のサイトから、米国の旅行雑誌の一つである、「Condé Nast Traveler(コンデナスト・トラベラー)」に読者投票ランキングの結果、東京が第1位になったという事を知りました。(東京都:https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2024/10/02/07.html
Condé Nast Traveler :The Best Cities in the World: 2024 Readers’ Choice Awards:https://www.cntraveler.com/gallery/2014-10-20top-25-cities-in-the-world-readers-choice-awards-2014)
日本に一時帰国する度に、東京をはじめ、いろいろな地域がどんどん変わり、新しいものがどんどん出てくる一方で、古いものや馴染みがあるものがどんどん無くなっているようにも思え、どことなく寂しさも感じてきました。が、それでも、東京生まれの私としては、東京の面白さや良さを感じる外国人の方々が多いということを知ることは素直にうれしいと思いました。
米国国立公文書館には、戦後まもなくの東京の様子を撮影した写真がたくさんあります。今回は、そうした写真のいくつかをご紹介したいと思います。
下の2枚の写真は、東京駅構内と周辺のものです。東京も焼け野原になったとはいえ、鉄道は動いており、人々にとっては重要な足でした。また、当時は、日本人一般の男性は国民服きており、それはいわゆる軍服とは異なるものでしたが、日本に到着したばかりの占領軍から見れば、そうした区別もできなかったようで、キャプションには、少年たちが軍服を着ているとキャプションに書いています。
今から100年前の米国では、禁酒法(1920-1933)によって、アルコールの製造、流通、輸出入及び販売が禁止されていました。今回は、そうした禁酒法時代についての関連資料をご紹介したいと思います。
米国では、南北戦争(1861-1865以前から、一部の州や地域では、禁酒令が定められていました。19世紀半ばから20世紀前半の北ヨーロッパや米国では、飲酒が、健康破壊、家庭内暴力や離婚、仕事への怠慢、貧困、治安悪化や暴力沙汰などを招くことになるといった社会問題が深刻となりました。米国のPBS(Public Broadcasting Service:米国公共放送)のサイトによると、「1830年までに、15歳以上の平均的なアメリカ人は年間7ガロン(現在の3倍)近くの純アルコールを消費し、(主に男性による)アルコールの乱用は、特に女性が法的権利をほとんど持たず、糧と扶養を夫に完全に依存していた時代において、多くの人々の生活に大打撃を与えていた。」とあります。そのため、奴隷制度を撤廃しようと闘った多くの奴隷廃止論者たちは、アルコールも、同様に根絶するべき悪を考えるようになり、特に、米国内のキリスト教プロテスタント教会に禁酒運動は、最終的には各地域、州、そして中央政府に対してアルコールの全面禁止を要求していきました。(Roots of Prohibition https://www.pbs.org/kenburns/prohibition/roots-of-prohibition)
禁酒法が成立する以前の禁酒運動は多くの女性によっても担われました。
左下のイラストは、フランク・レスリー・イラスト新聞(Frank Leslie's Illustrated Newspaper: 1855-1922)の1874年2月21日号の中に掲載された、女性禁煙運動活動家たちによる、酒場前でハミングをする様子を描いています。おそらくこれらの女性たちは、キリスト教禁酒婦人連盟(Women’s Christian Temperance Union: WCTU) のメンバーであったと思います。
右下はキャリー・ネイション(Carrie Nation: 1846-1911)というケンタッキー州出身の飲酒運動活動家が発行した「粉砕者通信」(Smasher’s Mail)という機関紙の表紙で、黒いドレスをまといながらも、鉞(まさかり:薪を割ったり木を切る斧よりも軽く、細い木を切ったり、葉を落としたりするためのもの)を手にして、ちょっと物騒な印象があります。実は彼女は、あまりにも熱心な禁酒運動家であったために、酒場に行っては酒場や酒瓶を破壊し、そのたびに逮捕されて罰金を払うといったことを30回ほど繰り返したようです。もともと最初の夫をアルコール中毒で亡くしたことが彼女を過激な禁酒運動家に駆り立てていったようですが、そのおかげで彼女はよく知られるようになりました。
もともと両親が、イギリスの劇作家であり詩人であったウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare: 1564-1616)が大好きであったこともあり、私は物心ついた時から、『ロミオとジュリエット』、『ベニスの商人』、『真夏の世の夢』、『ハムレット』、『リア王』、『オセロ』、『マクベス』などシェークスピアの本はもちろん、映画や演劇にも慣れ親しんできました。彼の作品は人間の普遍的な心理をテーマにしているので、時代を超えて多くの人々に愛されてきたのだと思います。
米国に来てからも、ワシントンDCにあるフォルジャー・シアターで、観劇はなんどかしたことがありましたが、フォルジャー・シェークスピア・ライブラリー(Folger Shakespeare Library)にまだ行ったことはありませんでした。今回、ようやく行ってきましたので、そのライブラリーについてご紹介したいと思います。
ライブラリーは、ワシントンDCの米国議会図書館の隣にあります。ニューヨーク生まれの弁護士でかつスタンダード石油会社の会長であったヘンリー・クレイ・フォルジャー(Henry Clay Folger: 1857-1930)は、英語学の専門家であった妻のエミリー・クララ・ジョーダン(Emily Clara Jordan Folger: 1858-1936)とともに、生涯を通じて、シェークスピアの本や、関連資料を財力と情熱を持って一生懸命収集し、またそれらのコレクションを多くの人々に利用してもらうために、図書館創設を計画し、1932年に完成しました。
ある調査で、米国国立公文書館や米国議会図書館のサイトを検索していたときに、たまたま、日露戦争中に活動していた日本赤十字の看護婦の写真を見つけました。なので、今回は、その写真とともに主に第1次世界大戦前後の日本赤十字関係の写真をご紹介したいと思います。
アメリカのダイナー(Diner)は、もともと電車内の食堂車や簡易食堂といった意味があったようですが、そこから手ごろな値段で、パンケーキ、オムレツ、ベーコン、ポテトの朝食メニューや、ハンバーガーやホットドッグやサンドイッチなどの昼食メニューなどをお腹いっぱい食べられるような身近な食堂として独自の発展を遂げてきました。アメリカで生まれ育ってきた人々であれば誰にとっても馴染みのある場所であり、それを日本の感覚でいうと、地元の行きつけの食堂または定食屋という感じなのかなと思います。
私にとっては、ダイナーは、80年代のたくさんのアメリカ映画の中のシーンに出てくる、イメージであり、ドラマが生まれるような魅力的な場所のようにも思えます。こうしたダイナーは、いわゆるレストランやカフェ、またファースト・フード店とも異なり、独特の食堂として存在していたし、アメリカ文化を考えるうえでも象徴的なものの一つといえるのではないかと思います。
2024年もあっとという間に半年が飛び去ってしまい、後半に突入してしまいました。
このところ、かなり蒸し暑い日々が続いていますが、その暑さに負けることなく乗り切っていかなければと思っています。
ある調査で、米海軍のカラースライド資料を見ることになったことがきっかけで、あらためて第2次世界大戦中のものをご紹介したいと思いました。米海軍のカラースライド資料は、RG80GK(Color Photographs of US Navy Activities 1939-1958 Reference/Reproduction Slides) というものになります。これらのカラースライドを見るためには、まず、RG80GKC(General Records of the Department of the Navy-Visual Aid Subject Index to Color Photographs of the Navy Activities WWII) というカラースライドの画面を白黒写真にしてその横にキャプションをつけた小さな目録カード資料を見るところから始まります。
左下の写真は、そのRG80GKCのファインディングエイドのフォルダーです。中身は、Box 1:Aircrafts (海軍航空機)からBox 14:Weapons(武器関係)までの簡単なトピックが書かれているだけのものですが、それらの中からBox 4-5のWWII (第2次世界大戦)を選び、それらの箱を出してみたときのものが右下の写真になります。
ワシントンDCの米国国立公文書館内では、今年の3月から7月までは、「パワーとライト:ラッセル・リーの炭鉱調査」(Power & Light: Russell Lee's Coal Survey:https://museum.archives.gov/power-and-light-russell-lee-coal-survey )という展示が開催されています。イリノイ州出身の写真家でありジャーナリストでもあったラッセル・リー(Russell Lee: 1903-1986) は、ルーズベルト政権下の、大恐慌の影響を受けた農業の救済と復興を目指す農業安定局(FSA:Farm Security Administration)のおける写真記録を残すために雇用されたことをきっかけとして、米国内のいろいろな地域と人々の生活を撮影しました。彼は、真珠湾攻撃後、日系収容所に収容された日系人の写真を撮影したカメラマンの一人でもありました。戦後は、内務省による米国内の炭鉱地域の医療調査に関わり、炭鉱地域の人々の写真を撮りました。
それらの炭鉱関係の写真は 米国国立公文書館に 全部で約9000枚近くあり、それらのうちの約半数がデジタル化されているようです。これらのすべての写真が、ラッセル・リーによって撮影されていたわけではないのですが、それでも彼の多くの写真を見ることができます。左下は、米国国立公文書館のサイト上の、「炭鉱産業の医療調査の写真」(Photograph of the Medical Survey of the Bituminous Coal Industry, 1946-1947, ) の画面です。このタイトルの、”Bituminous” という言葉は、「バトゥミマス」と読み、歴青炭/瀝青炭(れきせいたん)という代表的な石炭で、比較的柔らかいものであると言われています。
2024年という新たな年が始まったと思ったら、すでに3月半ばを迎えてしまいました。ワシントンDC周辺の桜も、来週にはピークになると言われています。
一方で国際情勢を見ると、ロシアのウクライナへの侵攻は丸2年を経てもいまだに続き、ロシアの反体制活動家のアレクセイ・ナワリスイ氏が北極圏の収監先で亡くなったことも衝撃的でした。また昨年10月のパレスチナのハマスがイスラエルへの大規模な攻撃を行い、それに対してのイスラエル側の報復も現在も続いています。米国に住んでいると、同じコミュニテイーに住んでいる近所の人々、また米国国立公文書館に出入りするリサーチャーの人々、また娘の大学の友人達の中には、こうした紛争国にルーツを持つ人々も少なくないし、彼らの血縁者や友人達も今もその紛争地で生活している場合もあるので、新聞やニュースで報道されている国際情勢も決して遠くの国のことではないことを日々実感させられます。
究極の暴力の中で、犠牲となるのは、兵士達だけでなく、一般の市民と子ども達であり、それは、日本がかつて体験した戦争の時代と重なります。そうしたことから、今回は、あらためて沖縄戦に巻き込まれた一般の人々に関する写真の中の、特に子ども達に関する写真をいくつか紹介したいと思いました。以下の写真のいくつかは、すでにいろいろな写真集でも紹介されてきたかと思いますが、あらためて原資料を見ると、大きなインパクトがあり、私達は今後も謙虚にあの沖縄戦について学び続けなければいけないと思いました。
2024年もあっという間に2月の半ばを迎えてしまいました。まだ寒い日もありますが、庭のふきのとうも芽を出し、少しずつ春が近づいているのを感じます。そろそろ裏庭での家庭菜園について何を育てるか、種を買うか、苗を買うかも含めていろいろ考えなくてはいけない時期になってきました。基本的には、私の家の家庭菜園は、土を使う、土耕栽培です。が、近年では、世界的には、土の代わりに、水と養液(液体肥料)を使い、野菜を育てるという、水耕栽培が、広く知られつつあるようです。そうした水耕栽培に適する葉野菜、適さない根菜などの違いもあると思いますが、そうした水耕栽培についても、もっと知りたいと思うようになりました。
水耕栽培は、古代のエジプトや、イラン、中国、そして南米でも存在していたようですが、現代の水耕栽培の技術の確立の最初のきっかけとなったのは、19世紀半ばに活躍した、ユリウス・フォン・ザックス(Julius von Sachs: 1832-1897)というドイツの植物生理学者が、植物の成長によって必要な栄養素(窒素(N)、リン酸(P)、カリウム(K)、マグネシウム(Mg)、S(硫黄)、Fe(鉄)など)を特定し、水耕栽培を使っての実験と研究を行ったことでした。(参照: “Plant sulfur nutrition: From Sachs to Big Data” Stanislav Kopriva, Plant & Signaling Behavior, Vol. 10, Issue 9, 2015:https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/15592324.2015.1055436)
そして、1930年代には、アメリカ人でカリフォルニア大学の植物生理学の教授であったウイリアム・フレドリック・ゲーリッケ(William Frederick Gericke:1882-1970)が、ギリシャ語で水を意味するハイドロ(hydro)と、働きを意味するポノス(ponos)を組み合わせて、水の働き、つまり、水耕栽培を意味するハイドロポニクス(hydroponics)として、その本格的な研究を行い、できるだけ早く、かつたくさんの植物や野菜を育てることを目指しました。
新年早々、能登半島の大地震、そして羽田空港での民間機と海上保安庁の飛行機との衝突事故と
いう大惨事が起こり、犠牲になられた方々には心より深くご冥福をお祈り申し上げます。また、今も大変な困難な状態にある被災者の方々にも心よりお見舞いを申し上げます。
ワシントンDCのスミソニアン博物館群には、ホロコースト博物館、航空宇宙博物館、ナショナル・ギャラリー(美術館)、アメリカ歴史博物館、アメリカ自然史博物館、アジア美術博物館、アメリカ・インデアン博物館、アフリカン・アメリカン博物館があり、どの施設も見ごたえのある素晴らしい展示会場になっています。
今回は、それらの中の、アジア美術博物館(National Museum of Asian Art)を構成する2つのコレクションである、フリーア・ギャラリー(Fleer Gallery of Art) とサックラー・ギャラリー(Arther M. Sackler Gallery)のうち、昨年、創立100年を迎えた、フリーア・ギャラリーと先日見てきた展示の一部についてご紹介をしたいと思います。