米国国立公文書館の写真リサーチルームにある、RG111SC(Record of Signal Corps:ベ陸軍通信部)の資料群には、フィリピン関係の写真が膨大にあり、日本兵捕虜の様子、日本兵によって甚大な被害を被ったフィリピンの人々の様子、町の様子、米軍による統治や整備など多岐にわたっています。今回はそうした写真の中からいくつかご紹介したいと思います。
フィリピンは、16世紀半ばにスペインの統治下におかれ、1898年のスペインとアメリカ戦争後は、アメリカの統治下に置かれることになりました。1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争中、フィリピンは、日本軍による侵攻からフィリピンの米軍降伏(1941年12月から1942年5月まで)と、米軍によるレイテ島上陸から、日本軍降伏まで(1944年10月~45年8月)の2度にわたって日米戦争の舞台となり、フィリピン全土は、すさまじい被害を受けました。フィリピンにおける日本人の犠牲者数は、約51万8000人(兵士:約49万8600人)であり、フィリピン人の犠牲者数は、全人口の約7%に当たる約111万人と言われています。
(参照:「過去」を克服した日比関係 —— マニラ市街戦80年:NIDSコメンタリー 第364号 2025年2月4日、研究顧問 庄司 潤一郎:https://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/commentary364.html)

When troops of the 35th Japanese Army surrendered to the Americal Division, these Japanese nurses glum and subdued, were with them. Many of the Japanese troops were suffering from wounds, sickness and malnutrition. 8/28/1945. No. 360736. RG111SCA Records of Signal Corps Album Series), No. 2844. National Archives in College Park, MD.
上は、大本営が、レイテ島を放棄した後も、レイテ島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島などの各地で長期持久戦を担う役割を持たされた日本軍35軍の部隊が、米軍のアメリカル師団に降伏したときに、その部隊とともに行動していた日本人看護婦部隊の写真です。キャプションには、看護婦たちは、、「心痛な面持ちで日本軍と一緒にいた。」とあり、「日本軍の多くは、負傷、病気、栄養失調に苦しんでいた。」と書かれており、彼らの闘いが物資の欠乏による飢餓との闘いでもあったことも理解できます。


Left: Capt. Nagasaki, a minor Jap officer in front of the Japs, addressing his troops that they are going to surrender and he is informing them that they have to surrender their sabers, pistols, rifles, and hand grenades.(Marikina Watershed Area, Luzon, P.I.) 8/28/1945. No. 392656. Box 836. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
Right: Sgt. Chapman, Loyal, Mass., of 632 Tank Destroyer Bn., talks to captured Jap before taking him to advance command post. Jap was captured between Palo and Tacloban, on Leyte Island, P.I. 10/26/1944. No. 260700. Box 465. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
日本軍側の投降は、部隊としてまとまった場合もありましたが、それは上官の判断次第でもありましたし、多くは、部隊がほとんど壊滅し、個々の日本兵が、投降を余儀なくされた場合も多かったと思います。左上の写真は、長崎という上官が、自分の部隊に米軍に投降すること、武器の一切を米軍に渡すことを指示しています。右上は、10代の少年兵と思えるような非常に若い日本兵が、米軍側の拠点に連れていかれる前に米兵と話を交わしている様子です。


Left: Identification unit photographing prisoners of war in the stockade of the 800th MR Bn., San Joaquin, Leyte, P.I. 2/3/1945. No. 265327. Box No. 282. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
Right: POW camp near Dagupan, Luzon, P.I., prisoners cutting bamboo to make small tables for mess hall. Camp has 300 prisoners including Japs, Formosans, and Koreans. They are living on captured Jap prisons. 2/24/1945. Photo No. 264112. Box 478. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
左上は、捕虜収容所に収容されてから各捕虜の顔が撮影されている写真です。右上は、収容所内で捕虜達が、食堂で使うテーブルを竹を切って作っている様子で、このルソン島内のダグパン収容所には、日本兵、台湾兵、コリアン兵を合わせて300名が収容されていたと記されています。


Left: Jap prisoners of war are ”Frisked”by military police following day’s work helping clear debris from buildings destroyed by enemy during battle for Manila, P.I., and just before being marched back to Bilibid Prison to be locked up for the night. Prisoners are Jap soldiers, sailors, and marines and receive fair treatment and standard food. 3/27/1945. No. 310819. Box 644. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
Right: Jap POWS at work in Malinta Tunnel. The prisoners have been put to work cleaning out the tunnels which were blasted by the Japs just before American forces recaptured Corregidor P.I. 11/6/1945. Photo No. 392660. Box 836. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
捕虜収容所の場所によっても、捕虜の労働は異なっていたがと思いますが、左上の写真は、マニラの戦闘で破壊された建物の破片を拾う労働に従事した日本兵捕虜が、何か余計なものを持っていないかのチェックをうけている様子です。右上は、マニラ湾の入り口にある、コレヒドール島にあったマリンタ・トンネル内で日本兵捕虜が、トンネル内の片づけをしている様子です。このマリンタ・トンネルはもともと米軍が1932年に兵器貯蔵庫として作り、太平洋戦争中は、米軍の司令部の要塞となりましたが、日本軍の侵攻によりしばらくは日本軍によって使われていました。その後米軍が上陸し、1945年2月の激戦で米軍がこのトンネルを奪回するに至ったのですが、その時の日本軍はこのトンネル内で玉砕したと言われています。

S/Sgt. Lincoln Taira, fro, 631 South 5th St., Brawley, Calif., member of the Language Detachment, 38th Div., is instructing 4 Japanese prisoners of war by means of an American captured Japanese map as to the route they will have to foloow in the unexplored territory of the Marikina Watershed Area, Luson, P.I. to contact their former comrades in arms. Notice the C rations, and a bag of rice they will take on their journey to sustain them. Picture taken in the compound of the 38th Div., Prisoner of War collecting point, Marikina, Rizal Rrov, P.I. 8/17/1945. No. 263492. Box 475. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
上の写真は、米国日系兵のリンカーン・タイラ軍曹が、米軍が、捕獲した日本地図を使って、4人の日本人捕虜に、かつての戦友と連絡を取るために、ルソン島内のマリキナ流域の未踏の地に向かう道順を教えている様子です。この写真の撮影日は1945年8月17日となっているので、すでに敗戦を迎えた直後でしたが、フィリピンにはまだ日本の敗戦を知らない日本兵も多かったと思いますので、こうしたことはほかでも行われていたかと思います。


Left: Interior surgery tent, 165th Station Hospital, Dulag, Leyte Island, P.I. 10/26/1944. No. 260670. Box 285. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
Right: Rations are given to Filipino natives by American troops, Dulag, Leyte Island, Philippines. 10/21/1944. No. 260639. Box 285. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
上の2枚の写真は、レイテ島のドラグに置かれた米軍野戦病院に収容された、戦闘によって負傷したフィリピンの人々、また米軍によって支給された食料を手にするフィリピンの人々の様子です。自分たちの住まいはもちろん、その地域にあった教会や学校他様々な建物が破壊され、食料を確保することもできなかった人々の苦難もまた想像を絶するものであったと思います。


Left: Exterior view of officer’s sales store in Tacloban, Leyte Island, P.I. 12/23/1944. No. 292152. Box 578. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
Right: Two workers change the sign over a Manila bar with an appropriate one in keeping with the Japanese surrender. “The Japan Surrender Bar” has changed names with almost each current headline. It was first named ‘The Lingayen Successful Landing Bar and Grill.” Manila, P.I. August 1945. No. 324838. Box 682. RG111SC Records of Signal Corps, National Archives in College Park, MD.
右上の写真は、レイテ島のタクロバンにかつてあった日本の、大同貿易会社の建物で、米軍上陸後は、米軍将校のための店になったようです。また左上の写真は、マニラのバーの看板で、店員2人が、当初は「リンガエン・サクセスフル・ランディング・バー&グリル」(リンガエンに無事上陸したバー&グリル)という名前の看板を掲げていたそうですが、今度は、日本の降伏にちなんで、「日本降伏バー」という名前に変えたというものです。
今回ご紹介した、写真はほんの一部ですが、それでも日本兵捕虜の写真からあらためて理解することも多々ありました。またフィリピンの人々に関する写真からも考えさせられたことがたくさんありました。
フィリピンと日本との関係は、16世紀末の朱印船貿易の開始により、マニラ他東南アジアに
日本町が形成された時代まで遡ります。20世紀初頭には、ミンダナオ島のダバオの農園軽経営のための日本人労働者が集まり日本人街を形成しました。太平洋戦争がはじまり、特に1944年から1945年の日米の激戦により、フィリピンの人々は甚大な被害を被りました。そうした歴史をきちんと学び続けることは、現在のフィリピンと日本の友好関係を続けることにつながると思います。(YNM)