もう10年ほど前の映画になりますが、皆さんは、宮崎駿氏の「風立ちぬ」の映画をご覧になったことがありますか。飛行機に憧れていた主人公の堀越二郎は、自分の夢に出てきた飛行機の設計技術者のイタリア人のカプローニにも励まされて、自分も飛行機の設計技術者になって情熱を注いていく話を中心に、里見菜穂子との出会いと別れ、そして戦争の時代に翻弄されていく姿を描いたもので、とても印象深い映画であったと思います。
たまたまある飛行機関係の調査をしていたときに、そのイタリア人のカプローニが設計した飛行機に関する写真を目にしましたので、今回はそれらの写真をご紹介したいと思います。
ジャンニ(ジョヴァンニ)・バッティスタ・カプローニ:Gianni (Giovanni) Battista Caproni 、7/3/1886-10/27/1957 は、イタリアの航空技術者及び航空設計者として、また航空機製造会社を作った人物としてよく知られています。
下の写真は、議会図書館のサイトから見つけたものです。真ん中のひげをつけた人物がカプローニです。
Caproni & his plane: Photograph shows Giovanni Battista Caproni (1886-1957), an Italian aeronautical engineer and founder of the Caproni aircraft manufacturing company with group of people in front of "The Caproni Flight", an enormous triplane bomber N531.7/29/1918. (Source: Flickr Commons project, 2016) Digital ID: ggbain 27306. https://www.loc.gov/resource/ggbain.27306/
Caproni and his giant triplane: Signor G. Caproni with British, Italian, and American officers grouped in front of the great triplane. No. 65 WW 435-P1898. Received on 10/8/1918. RG 165 Records of the War Department General and Special Staffs, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, Personnel - P1800 through P1899, Box 435. National Archives, College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/45534078
上の写真も、最初の写真と同じ日の1918年7月29日に撮影されたものだと思われますが、米国の戦争省が受け取ったのは1918年同年の10月の8日のことでした。こちらの写真には、カプローニと並んでいるのは、イギリス、イタリア、アメリカの将校達であったことが記されています。カプローニは、この第1次世界大戦においてもたくさんの爆撃機や輸送機を生産しました。アメリカ合衆国としても、カプローニの爆撃機を購入したり、いろいろな実験用に使ったりしていました。
1914年6月28日に起こったサラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻がボスニア系セルビア人青年によって暗殺された。)をきかっけにして、オーストリア側は、セルビアに宣戦布告をしました。セルビアを支援するために参戦したロシアとともに、当時ロシアと三国協商を結んでいたイギリスやフランスも参戦となりました。日本も、日英同盟の関係から、参戦をしました。アメリカ合衆国も当初は中立を保っていましたが、1917年の4月に参戦することになりました。これらは連合国とも呼ばれました。一方オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたドイツは、オーストリア側を支援するために参戦をしました。この三国同盟にはイタリアも入っていましたが、イタリアは、この時は参戦することはなく、1915年4月に密かにイギリス、フランス、ロシアとロンドン秘密条約を結び、その後三国同盟の破棄を宣言してから、連合軍側とともに、ドイツとオーストラリアと戦いました。
米国国立公文書館には、当時のカプローニ社が製造した爆撃機や輸送機などの写真がたくさんあります。
First 3 images(2 drawings and 1 photo):Airplanes-Italy-Caproni Ca.5. Photo No. B669, B670 and B656. B656: Caproni 5. Fiat 300 h.p. Close-up ¾ front view.
Bottom left: Caproni 3. Day Bomber-Italian. Old type of biplane for day and night bombing. Still used on front, but no longer under construction. Wing spread: 73ft. 10in. Mortars: 3 Isotta Fraschini 190HP. Endurance: 4 hours. Day Bombers. Climb to 6,500 ft. 12min. 30 sec. Speed at 6,500 ft. 85.8 miles Ceiling: 19.700 ft. Bombs: 441lbs. Crew: 3. Gun: 2. Photo No. B655.
Bottom right: Caproni 4. Night Bomber. Photo No. 646.
All from RG342 FH (Records of US Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Series Photographs of Activities, Facilities, and Personnel ca.1940-ca.1983), Box 207. National Archives, College Park, MD
上の最初の3枚の写真は、第1次世界大戦中に製造され、使われたカプローニCa. 5と呼ばれる型の爆撃機の図と写真です。また残りの2枚の写真は、カプローニCa.3とCa.4という爆撃機の写真です。通常、爆撃機というとまず、第2次世界大戦中のアメリカ合衆国のB29などの大型爆撃機をまずイメージしてしまうのですが、そうしたものとはかなり異なっていたかと思います。
第1次世界大戦後、 カプローニは、かつての爆撃機を改良して民間輸送機を作ることにも情熱を注ぎました。下の2枚は、第1次世界大戦中に使われた爆撃機を改良し、民間人輸送機にしたものです。
Left: Airplanes-Italy. Caproni Bomber conveted into a Passenger Carrying Plane. Photo No. B663.
Right: Airplanes-Italy.Caproni, Biplane, post war commercial. Photo No. B668.
RG342 FH (Records of US Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Series Photographs of Activities, Facilities, and Personnel ca.1940-ca.1983), Box 207. National Archives, College Park, MD
カプローニは、より多くの人間を運べるようにと17人乗り、20人乗り、30人乗りなどといった輸送機(旅客機)をどんどん作りました。下記の写真にも詳細は書かれていませんが、少なくとも17人または20人乗りの飛行機で、1920年頃のものだと思います。
Above left: Caproni Transport. Original too large to be filed in books. Received for Gen. Mitchell’s Office, Jan 1923. Photo No. B622.
Bottom left: Caproni Triplane. Photo No. 635.
Bottom right: Caproni Passenger-Carrying Triplane. Front view.
RG342 FH (Records of US Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Series Photographs of Activities, Facilities, and Personnel ca.1940-ca.1983), Box 207. National Archives, College Park, MD
カプローニのより多くの人々を飛行機に乗せて空を飛ぶという思いは、大西洋横断という大きな夢となり、それは、100人乗りの飛行機の製造として形になりました。いわゆる一般客を乗せる旅客機が登場したのは、1950年代でしたが、それが本格化するのは、1960年代以降のことであり、また500人以上の人間達を載せることができたのは1970年代のジャンボジェットが出てきてからのことでした。そうした歴史を考えると、1920年前後から100人乗りの飛行機を作ると考えること自体、当時の常識から考えると、とてつもなく無謀であり、普通の人間ではなかなか想像がつかなった大きな夢であったと思います。
下記の写真は、9枚の翼を持ち、8基のエンジンを持ったカプローニCa.60と呼ばれる型です。1921年しかしながら、この夢は、映画「風立ちぬ」の中でも紹介されているように、失敗に終わります。
Left: Caproni Flying Boat-Wingspan 33 meters, 24 tons, 8 motors, 400 h.p. 150 kilometers per hour. 3 pilots, 100 passengers, 2 mechanics, “Noneplandem.” Photo No. B679.
Right: Seaplane. Photo No. 674.
RG342 FH (Records of US Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Series Photographs of Activities, Facilities, and Personnel ca.1940-ca.1983), Box 207. National Archives, College Park, MD
カプローニは、この100人乗りの飛行機に関しては、その夢を実現させることはできませんでしたが、その後もいろいろな飛行機を作り続けました。やがて第2次世界大戦では、イタリアは、ドイツ、日本とととに、イギリスや、アメリカ合衆国他の連合国側との戦争に突入することになりました。カプローニの会社は、戦時中も飛行機製造は続けていましたが、連合軍側の空襲のターゲットにもなり、また、戦中及び戦後を通じて競争力を失い、1950年にはその会社も無くなってしまいました。
今回は、カプローニの飛行機に関する写真をたまたま見たところから、そうした写真のいくつかをご紹介をすることになりましたが、カプローニの飛行機づくりへの執念と壮大な夢は、とても興味深いと思います。2つの世界大戦に翻弄された時代でもありましたが、それは航空の分野だけでなかったと思います。科学と技術の発展は、どの分野においても、人間の生活をより便利に豊かにする一方で、その使い方によっては、戦争と殺戮のために使われてしまうという両面が常にあるという矛盾の中に私達人間は生きていると思います。その現実は、今もまだ続いているロシアのウクライナ侵攻においても、またつい最近勃発したパレスチナのハマスのイスラエルの攻撃とイスラエルの反撃においても、言えることで、それは、実につらい現実です。
イタリアの北部にあるトレントには、ジアーニ・カプローニ航空学博物館(Giani Caproni Aeronautics Museum )があります。今年の4月から来年2024年の4月まで、「制空権:カプローニCa.3爆撃機の起源とその現実」(Domination of the Air: Genesis and Reality of the Ca.3 Bomber )という展示が開催されています。(https://museostorico.it/exhibition/il-dominio-dellaria-genesi-e-realta-del-bombardiere-ca-3/ )カプローニが開発、製造した、第1次世界大戦時の爆撃機のCa.3という型に焦点を当てた展示のようです。この博物館は、かつてのカプローニの会社の建物も保存した形になっていると聞いているので、いつか必ず行ってみたいと思います。(YNM)