米国国立公文書館では、これまでいろいろなテーマで資料調査を行ってきましたが、そうした過程の中で、戦後の子ども達に関する写真を目にする機会がたくさんありました。今回は、そうした子ども達に関する写真についていくつかご紹介したいと思います。
Left: Japanese mother and her child aboard a Japanese destroyer which evacuated them from Manila to Japan (P.I.) 10/23/1945. Photo No. 216359, Box 307. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: Japanese civilians arriving at Hakata, Kyushu, Japan by fishing craft from Korea. 1/14/1946. Photo No. 218545, Box 317. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
太平洋戦争中またはその前から、海外に住んでいた日本人が、戦後まもなく、引き揚げ者として日本に帰ってきました。元日本兵や一般市民の引き揚げ関係に関する写真はたくさんあり、上の写真はそれらのほんの一部です。戦争中も、また引き揚げの過程も、子ども達にとっては、大変な体験であったかと思います。写真にみる子ども達の表情はとても緊張した面持ちであることが伺われます。
Left: Japanese police endeavor to halt black market: Vagrants such as these at Ueno Station, Tokyo, Japan. Area consultant source to the Japanese police. Picked up for vagrancy constantly, they are suspects in intense campaign to halt the black market throughout the greater Tokyo area. 12/27/1948. Photo No. 316741, Box 658. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: A Japanese orphan boy sleeps at entrance of Ueno Park, Tokyo, Japan. 10/13/1947. Photo No. 293123, Box 581. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
上記の写真は、戦災孤児の中でも特に浮浪児と呼ばれた子どもたちであり、彼らが非常に厳しい状況に置かれていたかを垣間見るような写真です。東京をはじめ、日本の大都市では、たくさんの空襲により家はもちろん、両親やそのほかの家族を失ったという子ども達がいました。その子どもたちの父親はすでに戦場に駆り出され、残る母親やほかの家族のメンバーは空襲や原爆で亡くなったということも少なくなかったと思います。
これらの写真に見る子ども達は、当時の私の両親の年齢とほとんど変わりありません。戦争中、東京都の文京区に住んでいた私の母は小学校低学年であり、弟とともに学童疎開で、栃木県に行きました。同じく東京都北区に住んでいた私の父は、中学生で、動員の一環として、軍事工場で働いていました。東京大空襲を体験した、私の母の実家も、父の実家も、家族のメンバーは皆生き残ることができ、それぞれの家もなんとか無事でした。が、同じ世代の子ども達の中には、頼るべき親兄弟や親類もなく、孤児として、たった一人で戦後を生き延びなければならなかった子ども達がいました。その現実は、あまりにも重く、本当に想像を絶する状況であったと思います。
Both: List of Figure-work on the Nation-Wide Simultaneous Investigation of Orphans, File 7 Orphans 1946-1948, Box 9376 Entry 1853 Public Health & Welfare Section Public Assistance & Child Care Subject File 1946-52, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II (RG331). National Archives, College Park, MD.
上記の資料は、戦後の連合軍による日本の占領期に関する資料の中の、”Child Care”(子どものケア) や“Orphanage”(孤児院)といったタイトルのフォルダーからのものです。1946年から1947年の調査をもとにして1948年2月に発表した統計によると、当時の日本には、12万人以上の孤児が存在していたと書かれています。統計上でその数になるということは実際にはもっと存在していたかと思われます。
Both: Child Welfare, File 1 Child Care 1946-1948 Box 9376 Entry 1853 Public Health & Welfare Section Public Assistance & Child Care Subject File 1946-52, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II (RG331). National Archives, College Park, MD.
上記の資料は、占領軍が、1946年の3月末以降、こうした孤児たちを含め子ども達へのケアやサポートに積極的に関心を寄せていたことがわかる資料です。まずは、神奈川県の孤児たちに関する調査報告には、戦時中の神奈川県内での空襲で、25000名もしくはその半分くらいの子ども達が孤児となっていると考えられること、彼らの多くは、主に親類縁者によって、または場合によっては隣人によって、サポートされた一方で、残りの何百人または何千人にも及ぶ孤児たちは、各町や村の通り沿いで生活をしていること、また県内では、たくさんの孤児院や児童施設があるが、食事や衣類、そしてそれを支える財政が十分でないことなどを指摘しています。さらに、日本の女性団体が、50人の孤児たちのために、孤児院や児童施設を設立するためにある建物を使いたいと神奈川県に要望したところ、県側は、その建物は、警察学校として使うとして、その要望は拒否されたという例を挙げながら、日本は、官僚的かつ非効率であり、また浮浪児や浮浪者への関心がない習慣があるということも、こうした浮浪児の問題の原因になっていると鋭く指摘をしています。
占領軍は、積極的に子ども達の保護とサポートを、日本政府に働きかけ続け、1947年には 厚生省に児童局が設置され、 また児童福祉法も公布され、孤児院や児童施設の整備も少しずつ進んでいきました。以下は、孤児院や児童施設の子ども達の様子の写真の一部です。戦災孤児となった子ども達だけでなく、戦後の混乱期に生まれて親が亡くなったり、または、親に、子どもを育てる手立てがなかったために、施設に入って生きるしか道がなかった子ども達もいました。
Left: Lt. Jean Bavowaski making friends with Jap baby at orphanage bazaar, held in Tokyo, Japan. 12/7/1945. Photo No. 223510, Box 333. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right t: Japanese orphan children at Keiairyo Orphanage near Yokosuka, Japan. These Japanese children are being led in a song by Japanese war widows employed in the toy factory that supports the orphanage. Singing is a regular part of their daily educational program. 12/5/1947.
Photo No. 294451, Box 586. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Left: Major Josee H. Crossett (left) Chaplain, 71st William N. Austill Chaplain Headquarters and Service Command, GHQ, FEC, attending a Christmas party sponsored Signal Service Battalion for Company C, 71st Battalion for the children of the Aiiku Orphanage. 12/23/1951. Photo No. 386552, Box 2245, RG111SCA. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: Children of the Akabane Orphanage in Kita-ku, 10/15/1952. Photo No. 407726, Box 2254, RG111SCA. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Left: Japanese children of Masuba-Hoiken Orphanage, stand at the entrance to their playground. This orphanage is sponsored by the officer and enlisted men of Co. B, Far East Command Signal Service Battalion, 8235th Army Unit, Camp, Tokyo. 6/18/1953. Photo No. 422196, Box 2259, RG111SCA. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: SFC Robert F. Murphy, West Rutland 9foreground) Co. A, NCOIC, Camera Section, Motion Picture Branch, Photo Div., FEC, SIG SVC EN, 8235 Army Unit, distributes clothing collected and forwarded to him by the Home Bureau Group of Cambridge, N.Y. under the direction of Mrs. Lillian Falkenbury to orphans at the Kachidoki Nursey Institute, while Ms. Hide Ishiyama, (center) supervisor of the orphanage, and Miss. Taeko Fujii help orphans to dress. 3/13/1953. Photo No. 430456, Box 2259, RG111SCA.
Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
こうした写真に写っていた子ども達は 当時どんな思いで生活をしていたのか、またその後、どのように成長していったのだろうかととても気になります。戦争は、人の命を奪い、生活基盤を根こそぎ奪い、家族をばらばらにしてしまうものです。未来を担うかげがえのない存在である子ども達が、戦争で犠牲になってしまう現実は、とても悲しく、残念であり、そうした体験を繰り返してはいけないのだとあらためて強く思います。
しかしながら、第2次世界大戦終結後も、世界各地で、局地的には様々な戦争が起こり、たくさんの子ども達を含む人々が犠牲になりました。2022年2月24日から、ロシアによるウクライナ侵攻が開始され、兵士だけでなく子ども達を含む多くの一般市民が毎日犠牲になっています。次世代を担う子ども達がこうした犠牲になるのはなんともむごいものであり、このままでは未来はないままです。なんとしてもこうした犠牲を止めなければいけないと思います。(YNM)