オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館についてご紹介したいと思います。オーストラリアの戦争との関わりは、1901年の建国以前の18世紀の入植の時代から近年の湾岸戦争への参加や現在の国連の平和維持軍の活動まで長くかつ広いものですが、この記念館の展示の主なものは、第1次世界大戦と第2次世界大戦に関するものであり、さらに現在も続いている中東地域の戦争に関するものも入っていました。
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戦争記念館の入口
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メモリーホールに続く中庭
1914年7月に第1次世界大戦が勃発し、翌8月には連合国側のイギリスは同盟国側のドイツに宣戦布告をしたことにより、当時のイギリス帝国の自治領の1つであったオーストラリアも戦闘に参加することになりました。オーストラリアにとって第1次世界大戦とはどのようなものであったのかについて、当時ドイツの統括下にあった太平洋上の島々から、当時のオスマン帝国(トルコ)やエジプト他中東、さらにフランスなどのヨーロッパまでの各戦場の様子や当時の武器や戦闘技術、また兵士の動員などについての詳細な展示がありました。
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当時の兵士と馬
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当時の小型大砲
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フランス北部での戦闘の様子
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看護婦の制服とメダル
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4枚とも兵士募集のポスター
上記の4枚は兵士募集のポスターや関連資料です。1916年になると戦場へ行く志願兵が減ってしまったために、当時のヒューズ首相はそれまでの国内に限られていた兵役を海外兵役を含めた形で法制化しようとしましたが、2回にわたる国民投票でも否決されて、あくまで志願兵によるものに頼らざるを得ませんでした。
第1次世界大戦における戦闘参加をしたオーストラリア兵士は41万6809名、そのうちの6万名以上が戦死、15万6千名以上が負傷者や捕虜となったと戦争記念館のサイトにはありました。(First World War 1914-1918: https://www.awm.gov.au/articles/atwar/first-world-war )
その第1次世界大戦が1918年11月に終結し、翌1919年6月にはにはベルサイユ講和条約が締結されましたが、それから20年後、不幸にも第2次世界大戦が始まってしまいました。 1939年9月1日にドイツはポーランドへの侵攻を開始し、3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告をしたことにより、オーストラリアも連合国の一員として戦争に参加することになりました。1941年12月の日本による真珠湾攻撃後の、1942年から1943年にはオーストラリアのダーウィンやブルーム他の地域で日本軍による空襲が何度もあり、大きな被害を被ることになりました。オーストラリアへの脅威が迫る中で、オーストラリア国内では女性の動員や先住民族のアボリジニーの動員も積極的に行われました。
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オーストラリアに
日本軍が迫るという意味のポスター
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アボリジニーの戦争への動員を示す
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女性の動員
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女性兵士の制服
この第2次世界大戦の展示には日本軍に関係するものも多く展示されています。下記の写真は1941年12月にマレー半島北端に奇襲上陸し、1942年1月末の半島の南端のジョホールパルの占領をした日本軍の記録です。
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日本軍の記録
一方では当時の日本軍によって捕虜となったオーストラリア兵への虐待や処刑など胸が痛むような事実についての展示も多々ありました。ボルネオ島のマレーシア領である地域の中のサンダカンにあった捕虜収容所では、過酷な条件の中でサンダカンからラナウという町まで約260キロの道のりのを行進させられた中で1787名のオーストラリア兵が亡くなりました。
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犠牲者の方々の写真
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サンダカン捕虜収容所の地図
戦争記念館の中ではたくさんの赤いポピーの花を目にします。その赤いポピーの花はもともと第1次世界大戦の戦場となり荒廃していたフランス北部やベルギーで咲き始めた花であったそうです。戦闘で亡くなった兵士たちの血の色が花の色になったという言い伝えもあり、そこから詩が作成され、次第に亡くなった兵士を追悼するシンボルになりました。(Red Poppies: https://www.awm.gov.au/index.php/commemoration/customs-and-ceremony/poppies )
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戦争記念館の中庭
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戦争記念館の中庭の2階に
刻まれた戦没者名
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中庭に咲いていた赤いポピー
オーストラリアの戦争記念館は、オーストラリアがどのように戦争に関わってきたのか、またどのような犠牲を強いられてきたのかを学ぶところであり、同時にそのオーストラリアと一緒に戦ってきた国の人間であろうと、そのオーストラリアと対峙した国の人間であろうと、謙虚に戦争について考えさせられるところでもあり、とても見ごたえのある場所であると思いました。
最後にこの戦争記念館のギフトショップで購入した本をご紹介したいと思います。第2次世界大戦中の1944年8月5日に、カウラ(Cowra:シドニーから西方250キロ)という町にあった第12捕虜収容所で日本兵捕虜の集団脱走という事件が起こり、オーストラリア人4名と日本人234名が亡くなった事件に関するもので、『鉄条網にかかる毛布―カウラ捕虜収容所脱走事件とその後 ステイーブ ブラード著 田村恵子訳 豪日研究プロジェクト オーストラリア戦争記念館2006年』という本です。こうした事件についても私達はきちんと学び次世代に伝えていく努力をしなければならないと思いました。(YN)
鉄条網にかかる毛布―カウラ捕虜収容所脱走事件とその後 ステイーブ ブラード著 田村恵子訳 豪日研究プロジェクト オーストラリア戦争記念館2006年
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/Web-Pages/Blankets_J?OpenDocument
https://www.awm.gov.au/shop/item/0975190474/