米国国立公文書館ではRG(レコードグループ)331にSCAP(Supreme Commander For the Allied Powers)の資料があります。SCAPは通称GHQもしくは進駐軍と呼ばれています。
その資料の中に引揚者に関するものを見つけました。この資料は共同写真通信からの写真のコレクションです。
弊社ブログ2015年5月12日付の「戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還」がありますが、それも合わせてお読み下さい。
我が子より寿司を口に入れてもらう引揚者。(品川駅前にて) 7月2日
お父さんの今にも泣きそうな表情から今までの苦労が偲ばれます。
「シベリア引揚佳話」の主、市東光男君帰る 8月2日
この青年は何かに寄稿していたのでしょうか? お母さんと妹さんに迎えられています。お母さんによく似ていますね。
「頭を刈ってサッパリと」引揚者を待つ品川駅 24年6月27日
これは面白い写真で、数日後のソ連からの引揚者の到着に備えて歓迎準備に忙しい品川駅ではプラットホームに臨時理容店が開設されたようです。列車到着後はお客さんをさばくのに大わらわだったことと想像できます。
引揚第二列車東京到着
この写真は「早くも背広姿の引揚者」とあり、右側の帽子をかぶっていない男性が引揚者の大野正さんです。 社会復帰に意欲的だったのでしょうか?
社会復帰といえば、こういう写真もありました。
函館の写真で「故国へ第一歩を印する埠頭上陸所と大看板」 6月26日
外地から帰国した兵隊さんの中には「戦争ボケ」と呼ばれる虚脱状態に陥った人も少なからずいたかと思いますが、求職活動は現実に戻るのに良いセラピーだったのかもしれませんね。
最後に「喜びの坂野さん一家」という写真をご紹介します。 6月28日
左側はシベリアから帰って来る坂野茂夫さん、右側は茂夫さん引き上げの報に喜びの坂野さん一家、です。眠っている3人の息子さんたちも起きた時はとても喜んだことでしょう。
ソ連に拘留されていた人が日本に帰って来てから家族にあてた手紙の英訳文がこの資料群の中にありました。8時間みっちりの重労働、時には夜の11時まで夕食なしで働かされたそうです。日本に手紙を送ることさえ許されなかったそうです。引揚げ前には、思想教育も厳しくなり不要な発言をすると強制労働が待っており、牢獄送りになる場合もあったようです。
言葉にもできない苦労の末に故国に帰還した方々が、家族や近しい友人と再会した時の気持ちはどのようなものであったのでしょうか? 今を生きる私たちにも一考の余地はあると思います。(MU)
*写真のキャプションは全て
25 Repatriation; Civil Censorship Detachment Record Section; Press, Pubs & Broadcast Division Central File 1945-49 (Box 8571, Entry # UD1803); Allied Operational & Occupation Headquarters, World War II Supreme Commander for the Allied Powers, Record Group 331; National Archives at College Park, MD