日本でも一度はこの名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?米国のカンザス州出身の女性飛行士で1932年に女性としては初めて、大西洋単独横断飛行を達成したことで広く知られています。米国では女性飛行士という肩書きや彼女が成し遂げた異例の飛行経験以外にも彼女の人柄を好む人が多くいたようで、彼女は米国でヒーローのように扱われたということです。しかし、着実に飛行士としてのキャリアを積み上げていた真っ最中、1937年、39歳の時に飛行機遭難事故により失踪し、2年後には死亡声明が発表されました。このアメリア メアリー イアハートの最後のフライトとなった飛行機遭難事故が彼女を最も有名にした事柄といっても過言ではありません。今回は米国国立公文書館にある、アメリアに関連した資料の紹介をしたいと思います。
Photograph No. 26-XC-401403 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.
左下の写真のキャプションには『飛行訓練が整った、アメリア』とあります。残念ながら撮影した日付の記載がないので、この訓練が失踪をした最後のフライトへ向けてのものだったのかどうかは定かではありません。
Photograph No. 26-XC-357096, 872144 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.
他にもランチをとっている写真や、アメリアと彼女の夫、ジョージ・パットナム氏とのショットであったり色々なシーンが納められているのですが、やはりアメリアが飛行機と写っているものがほとんどでした。
Photograph No. 26-XC-401704, 64999 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.
彼女の飛行機が失踪後、主に米海軍と沿岸警備隊が彼女の捜索をしました。失踪日の1937年7月2日の午後から7月18日の捜索記録は公文書館のオンラインサイトでも見る事ができます。(https://catalog.archives.gov/id/305240)日付や時間、捜索場所などを丁寧に記録しているのがわかります。
アメリア達を捜索した船、USS SWAN
“Searching for Amelia USS SWAN” Photograph No. 26-XC-401403 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.
今回のブログを書くにあたって、失踪直前の最後の交信が記録されている資料を見てみたかったのでリクエストをしました。失踪直前の交信記録はとても貴重なものであるためSpecially Protected Recordsという特に貴重なお宝資料のようなものばかりを保管するところで大切に保管されており、アクセスにも制限があることがわかりました。残念ながら、最後の交信記録に関しては原本資料を見ることができませんでした。しかし、米国公文書館が独自にスキャンをした画像は利用してもよいということで、後日その資料の画像が直接私の方へ送られてきました。全部で4枚ありますが、そのうちの1枚を紹介したいと思います。
“Radio Log of the Last Communications of Amelia Earhart” ARC Identifier: 6210268, Series; Textual Materials Relating to the last Fright and Disappearance of Amelia Earhart, 1937-1/31/1971, RG N/A, Entry P1, National Archives at College Park, College Park, MD.
この交信記録ですが、1937年7月1日の午後3時台から8時台のものになります。黒い下線が入っている部分は、アメリアからITASCA(アイタスカ:当時アメリアの飛行機の到着地点で彼女の飛行を援助していた米国湾岸警備隊の船)に送られているものです。何度も交信を送信しようとしているアメリア側に対し、受け取る側のITASCAからは『Unanswd(Unanswered;応答なし)』のタイプが目立ちます。アメリア側はITASCAからの応答が得られないにもかかわらず状況を必死に伝えようとしている箇所が目立ちます。例えば0741(7:41)のアメリア側からの送信ですが『ITASCA WE MUST ON YOU BUT CANNOT SEE U BUT GAS IS RUNNING LOW BEEN UNABLE TO REACH YOU BY RADIO WE ARE FLYING AT A 1000FEET』(ITASCA 、私達はあなた達の上を飛行しているはずですが、あなた達の姿が見えません。しかしガス(ガソリン)が少なくラジオで交信もできません。私達は高度1000FTを飛行中です。)とあり、この発信へのITASCAからの応答はなくこういった状況が次ページの交信記録までも続きます。一方ITASCAも最初の方ではアメリア側からの交信を受け取ったような記述もあるのですが後半になると受信できないのか応答なしの記述が目立ちます。このように2つの交信がすれ違ってしまっているのが失踪前の交信記録から確認できます。
次ページ後半では交信が完全に途絶える少し前にITASCA側が『よく聞こえている』と応答したにもかかわらずアメリア側からは応答を受けることがなく失踪へと至った経緯が確認できました。お互い交信をしようとしていたにも関わらず、アメリアの飛行機は交信記録からも読みとれるように目的地を目前として突然遭難しました。
遭難から80年が過ぎた2018年3月、過去に測定した骨を再測定した結果、彼女の骨である可能性が非常に高いと決定付けられる人骨が見つかったという事です(http://www.afpbb.com/articles/-/3166710)。この人骨が彼女のものである場合、航空史ミステリーの1つであるこのストーリーに幕がひかれることとなります。しかし彼女の最期のフライトで起こった真実については交信記録上で読みとれるもの以外にはなく誰も知ることはないのだと感じました。(MJ)