1920年代の米国は日本をどのようにみていたのか

今年は1776年のアメリカ合衆国(以下米国)建国から240年目にあたります。米国と日本との関わりを考えれば、1853年のペリー来航以前にも例えば1837年のモリソン号事件を含め、両国の接触はいろいろありましたが、正式には 日米の外交の始まりは、1854年に締結された日米和親条約までさかのぼります。その後は1858年の日米修好通商条約締結、その条約の批准のための1860年(万延元年)の遣米使節がありました。

 

その後、近代化を迎えた日本は米国とはどのような関係を保ち、またどのような形でそれが崩れて太平洋戦争に突入してしまったのでしょうか。また当時の米国は、日本をどのようにみていたのでしょうか。こうした質問に答えるための資料も米国公文書館には膨大にあります。

 

今回は、1920年代の国務省の資料及びその他の関連資料をご紹介したいと思います。1910年から1929年の国務省の資料の中に、非常に興味深い資料がありました。1921年9月21日付けの冊子で、Paul Page Whitham とCapt. W. I. Eisler という2人の人物によって書かれた、 ”American Commercial Interests and the Pacific Conference” というものでした。この資料にはこれらの人物の詳細はまったく書かれていませんでしたが、Paul Page Whithamという人物は、1918年に“US Department of Commerce Bureau of Foreign and Domestic Commerce Preliminary Report on Shanghai Port Development “(Preliminary Report on Shanghai Port Development / by Paul Page Whitham from Hathi Trust Digital Library: http://catalog.hathitrust.org/Record/002707044)というレポートを書いていたことがわかりました。その時の肩書は、顧問技師兼貿易官(Consulting Engineer Trade Commissioner)となっており、米国の商業省の役人で上海にいたことがわかりました。おそらくもう一人のCapt. W. I. Eislerは米海軍の幹部であり、彼もまた上海にいた人物であったかと思われます。

 


RG59 (General Records of the Department of State Central Decimal File 1910-1929), Box 5246, National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

この二人が記した冊子は、1921年の9月とあるので、その年の11月から翌1922年の2月までワシントンDCで行われたワシントン会議に米国が臨むにあたっての準備資料となったようです。この資料の最初のページには、太平洋地域の地図を表現した地図の写真とその下に“The Pacific Ocean, Important today is The Sea of Tomorrow, the scene of the great political and commercial events of the near future.”といった1文が添えられています。そのあとに太平洋が米国にとっていかに大事なものであるかを述べた前文があり、非常に簡略化されたアジアの歴史(大きな誤解を含んだ歴史観が根底にあるようでした。)に触れてあり、そのあとは太平洋におけるアメリカ、イギリス、日本、中国の各国の方針について、また、ワシントン会議における問題についてなど書かれており、また中国、日本、フィリピンなどアジア各地の港や都市の様子の写真も張り付けられていました。これらの中の、太平洋における日本の方針と傾向という部分では、以下のような文章がありました。

 


 In order to get at Japan’s real policies, it is necessary to dig in under the superficial cover laid by diplomatic statements and assurances made to Western peoples. Not that such statements are always insincerely made, but the acts do not in many cases square with the words. The actual performance and real policies are dictated by the military and clan leaders who are the hidden hand of power behind the diplomatic and other civil officials. 

 

 Japan’s policy is the economic control of the vast North eastern portion of the continent of Asia, an area twice the size of the United States and populated with something over 500,000,000 people. In order to make certain of and protect the economic domination, political and military control is considered necessary, that is to “safeguard Japan’s vital special interests.” 


「日本の真の方針を理解するには、西洋諸国に対する、表面的な日本の外交的な声明や保証といった形で見られるものの奥にあるものをきちんと見据えなくてはいけない。もちろん、そうした日本の外交上の声明や保証がすべて誠意にかけるというわけではないが、その行動そものは、その言葉が意味する範囲にとどまらない場合が多い。日本の実際の行動や方針というものは、外交官やそのほかの民間人の背後に控えている軍部及び関係派閥によって命令されている。日本の方針は、米国の2倍の面積に相当するような、また人口5億にも及ぶという、アジア大陸の広大な北東部を経済的に統制するというものである。この目的を果たすためには、日本は政治的かつ軍事的統制が必要であると考えられ、それが、”safeguard Japan’s vital Special interests” (日本にとって生命に関わる特別な権益を守る)ということになるのである。」


 

日本側の言葉というものは額面通りに受け取ってはいけないといった事を書いており、そうしたこと自体がすでに外交上でも双方が心理戦を展開しているのだと思いました。また、この文章を読んで、思わず、そのあとの時代の1931年の1月に日本国内の議会で当時の代議士であった松岡洋右が「満蒙問題は日本の生命線である」(満蒙とは中国東北部の満州と内モンゴルの東部を指す。)と発言し、その発言は世間に広まり、同年9月の満州事変とその後の拡大においても積極的に使われたスローガンを思い出してしまいました。

 

上記の冊子で主張された米国の太平洋における方針は、下記の資料にも見られるように、ワシントン会議の直前の1921年10月31日でもあらためて米国として確認をされており、政府各関係機関においても協力すること、また米陸海軍においてもそれに基づいて戦争計画も立てるようにといった事が書かれていました。

 

RG59 (General Records of the Department of State Central Decimal File 1910-1929), Box 5265, National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

1921年11月から1922年2月にかけて行われたワシントン会議は、米国を中心として9か国(米国、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国)が集まり、海軍軍備の制限を定めた5か国条約(米国、イギリス、日本、フランス、イタリア)の締結がされ、また太平洋の島々の管轄と権益においては現状維持を確認した4か国条約(米国、イギリス、フランス、日本)の締結及び日米同盟の破棄、そして中国における門戸開放を定めた9か国条約が成立することになりました。これにより、日本は山東省の旧ドイツの権益を返還することになりました。が、これは東アジアや太平洋における関係大国による利害の調整と確認であり、また植民地主義の再編という意味を持っていました。

 

当時の米国のアジア観や日本観には西欧諸国一般が持っていたものと共通するものがあったと思いますが、同時に米国は日本に対する懸念をどんどん高めていきました。当時の米国は、日本、イギリス、ドイツなどの世界の主要国との戦争が起こることをすでに想定した戦争計画を立てており、それらは一般にカラーコード戦争計画と呼ばれていました。米国そのものは青色とし、他の主要国は、例えばイギリスは赤色、日本はオレンジ色、ドイツは黒色とされました。

 

下記の資料は1928年1月9日付けのJoint Army and Navy Boards and Committee (米陸軍海軍合同会議)によるJoint Estimate of the Situation Blue-Orange and Joint Army and Navy War Plan-Orange (米日関係の今後及び対日戦)についてというタイトルの資料の一部です。そこには、日本がかつての世捨て人的な国家(鎖国/海禁)であったにも拘わらずたったの僅か60年(1868年の明治維新から1928年までの)の間に、世界の主要国の一つと言えるところまでの国家になったこと、また、日本は台湾、南西諸島やボニン(小笠原)諸島、南樺太、朝鮮半島、中国の旅順(遼東半島)の領有や旧ドイツからの権益、さらに満州の権益の拡大をしてきたこと、日本にとっては、極東の中心的存在であることを保つには軍事力が鍵であること、産業化を促進するためには、日本の国外からの資源を輸入することが必要なこと、また人口も増大しているので、植民地化を通して領土を広げることもさらに必要になっていることなどが指摘されていました。こうしたことに対して、米国は大きな危機感をいただいていましたが、その当時外交上の日本との関係において、米国として行うべきことは、中国における門戸開放の維持、中国の領土保全、米国のフィリピンにおける優位の維持、アジア系移民の排斥、太平洋の海軍力や要塞の制限、米国民のためのモンロー主義(孤立主義)、パナマ運河の維持、カリビアン地域における米国の優位維持といったことが掲げられていました。

 


RG 165 (Records of War Department General and Special Staff) Entry NM84-284 (Security-Classified Correspondence of the Joint Army-Navy Board 1910-1942), Box 8, National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

1931年には満州事変が起こり、1937年には日中全面戦争へとエスカレートしてきました。一方、ヨーロッパではナチスドイツが台頭し、1939年にはドイツのポーランド侵攻をきっかけとして第2次世界大戦が勃発していきました。こうした世界情勢の変化に伴い、米国はこれまで想定していたカラーコード戦争計画は古くなったとして、新たなレインボー計画第1から第5までを作ることになり、対日戦はレインボー計画第3へと変わっていきました。これについてはまた次の機会に資料を紹介できればと思います。(YN)