ある日本海軍兵が残した手紙の綴り

米国国立公文書館の、太平洋戦争中における海兵隊資料には、彼らが戦闘中に捕獲した日本軍資料があります。それら日本軍による印刷された作戦関係資料もあれば日本海軍の兵士個人の手書きの日記やメモや遺書、また家族や友人から受け取った手紙の綴りなどといった資料も入っています。こうした日本海軍兵の個人の資料においては、個人の名前や部隊名がそこに残されているものもあれば、何も情報がないままであるものもあり、また資料として完全な形で残っているものもあれば、その一部としか残っていないものもあります。が、少なくともこうした資料から、それぞれの兵士が自分の記録として最後まで大事にしていたものだろうと察することができ、そこに残された文面から、家族や故郷への思いを最後の最後まで胸に秘めていたのだということが伝わってきます。

 

これらの資料のうち、表と裏の台紙に家族や友人から本人へ送られた手紙を挟み、表の台紙に ”現役中受信綴り 懐かしき想出(便り)“という題名を記して、上部を紐できれいに留めた綴りの資料がありました。題名の隣には、現役 大日本帝国軍艦勝力機関科とあり、さらに応召 呉鎮第三特別陸戦隊矢野部隊対戦車砲隊田中小隊という所属部隊情報がありました。この手紙の綴りが入っているフォルダーは、Personal Letters Belonging to Soldiers on Guadalcanal というもので、この方はガダルカナルで戦死された日本兵の方でおられたことがわかります。

 

From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この資料はもちろん、このエントリーの資料全体からも残念ながらこの方がどのような戦死を遂げられたのかについての情報はありません。米軍をはじめとする連合軍の捕虜となり尋問記録があれば日本兵の個人情報は存在するかもしれませんが、そうでなければ難しいかと思われます。が、それでも米軍の戦闘記録を追う中で、少なくとも壮絶な戦闘の様子を多少なりとも垣間見ることができるかもしれません。

 

この残された手紙の綴りを通してこの日本兵の方の人柄を垣間見ることができるように思えました。これらの手紙には、この日本兵の方に対してその労を気遣いとともに、本土にいる友人や家族による自分たちの近況が語られています。内容から判断すると1930年代後半のものであったことがわかります。おそらくこの手紙の綴りにはさらなる続編が存在していたのだと思いますが、資料として残ったのは、この兵士の方がガダルカナルに到着する以前の、中国戦線にいたころの手紙の受領であったことがわかります。

 

友人または先輩かと思われる人物からの手紙には、武漢三鎮陥落によって大阪でも全工場が汽笛を鳴らして市民に報知し、各所に祝賀会提灯行列などで大変な騒ぎであること、また国民精神作興体育大会の関西大会が甲子園で行われたことなどが書かれています。 つまり、これらは1938年(昭和13年)の10月に中国の武昌、漢口、漢陽の各都市が日本軍の手に落ちたことや11月には日本で国民精神作興体育大会が開催されたことをさしていると思います。また、一方では銃後の国民の生活に言及し、デパートの年末大売出しや年賀状や新年宴会といった年末年始特有の行事が廃止されたこと、物品愛護の名目で、デパートやその他の店では、中古品の売買の奨励やら、服や靴の修繕・修理の奨励とガソリンや紙の節約が声高らかに叫ばれるようになったことも記しています。1941年の真珠湾攻撃から始まる日米開戦の前の時代ですでに社会は重苦しい時代に突入していたことがわかります。

 

この日本兵の方が姉のように慕っていた女性がいたらしく、その女性からの手紙には、“瞼のあなたは勇ましくニッコリ笑っていらっしゃいます。”といったことも書かれており、またその女性の別の手紙には着物をきた彼女と彼女が飼っていた犬の小さな写真も添えられていました。ささやかながらも細やかな相手への思いがしたためられていることがよくわかります。同時に盛り場のイルミネーションもなくなりなんとなく切迫したものを感じると記しています。彼女の手紙の文面からこの日本兵の方は一人っ子であったこと、また家族思いであり、とても純情な男性であったことが伺われます。彼女の手紙の一つには彼女の自宅の周辺に咲いていた桜の押し花がさりげなく添えられていました。

 

Both images: From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この手紙の綴りにはさらに別の女性からの手紙や、彼の母、この日本兵の方を兄のように慕っていた従姉妹や彼の両親の手伝いをしていた女性からの手紙などもありました。この日本兵の方の実の父は病気であり、息子に心配をかけたくないので長い間詳細を言わなかったこと、また本来であれば、自分から息子に小遣いをやらなければいけないのに、一生懸命自分の任務に励む息子からお金を逆に送ってもらい、さめざめと泣いていた母の様子など家族として互いを気遣い、思いやる気持ちがその手紙の中にあふれていました。

 

これらの手紙をこの日本兵の方は送信人ごとに手紙を整理して思い出としてまとめ、最後まで自分の心の拠り所として大事にされていたのではないかと思いました。またこれらの手紙の内容からしてこの方ご自身も筆まめで家族や友人にできるだけ手紙を送っておられた方であったのではないかと思いました。

 

現代は、コンピュータやスマートフォンが流行し、メールでも電話でもどこでもいつでも簡単にかつ気軽に家族や友人と連絡を取り合うことできる時代です。私達にとっても、手紙をあらためて書く機会は以前より一層少なくなってしまいました。しかしながら、戦争中は、誰にとってもまずは手紙を書くことが唯一の交信手段でした。一方では、戦地にいる兵士と銃後を守る側にいた家族や友人との間には軍による検閲もありましたし、本当に書きたいことを書けないといった歯がゆい気持ちもあったかもしれません。また、自分の思いをこめて一生懸命書いた手紙が戦火が激しくなる中で戦地に届かなかったり、または戦地から日本へ届かなかったこともあったかもしれません。この日本兵の方がどんな思いでこの手紙の綴りを丁寧に作り最後まで大事にしていたのかについて考えると私はとても胸が痛くなりました。同時に、そして戦地に赴いた息子の無事を願い、常に安否を気遣う両親や彼を慕っていた友人や従兄弟達の思いもどれほど強かったことであろうと思いました。

 

私達戦争を知らない世代ができることは限られていますが、それでもこうした貴重な歴史資料が伝える事を学び続け、次世代に残していかなければならないと強く思いました。(YN)