3月11日の日本大震災からはやくも四ヶ月が 過ぎようとしています。想像を絶する数の方々が亡くなり、未だに7,200人以上の行方不明の方々が存在し、さらに11万人以上の避難生活を余儀なくされている方々の不自由さと困難を思うと胸がとても痛みます。福島の原発事故の処理状況も、放出された放射能による被爆の実態も不透明な中で、日本の多くの人々の生活が脅かされているという現実に、米国に住む私自身もいてもたってもいられないという気持ちでいます。
日本は、広島と長崎の原爆による被爆、米国の核実験による第5福竜丸の被爆、そして核兵器ではなく、地震によって、“平和利用”であるはずの原発が福島での事故によって、またもや被爆を体験することとなりました。日本においては、今回の事故をきっかけに、原発の歴史や、原子力の平和利用とは何か、といったテーマで議論がなされ、また多くの記事や本が出版されているようですが、日本における原子力の発展とその歴史を考える上で、米国公文書館に存在する資料はきわめて重要であると思います。
戦後直後から原子力の平和利用の考えは日本に存在していたようですが、本格的な動きは1950年代に入ってから起こります。国連におけるアイゼンハワー米大統領の原子力の平和利用演説があり、また日本は原発技術の習得や原子炉をイギリスやアメリカから輸入することとなりました。政治家はもちろん、産業界の要人、科学者達が中心となり、原子力委員会他関係機関が作られ、また日米間、日英間でも積極的な議論が展開されるようになりました。
当初は日本は地震が多いので耐震構造についても議論はされていたようですが、公文書館にある資料の一部を見た限りでは安全性に対する議論が深く審議されていたかを物語るものはまだ出てきていません。むしろ最新科学技術の発展の中で輝かしい功績としての原子力、あらゆる産業と経済の発展に不可欠なすばらしい原子力の発展を進めるべきであるという声が多かったようです。また原発は、当時の日本各地で大々的に開催された様々な復興博覧会や産業貿易博覧会の中で、偉大な原子力技術としては宣伝されていた傾向が強かったという印象でした。
米国では、1955年に民主党議員のシドニー・イエイツやアメリカ原子力委員会長官のトーマス・マレーが、広島に原子炉を建設すべきであると米国議会で主張しました。原子力爆弾で被爆し惨禍を蒙った広島において、平和利用という名であっても、中身は同じである原子力を使うという発想に私は衝撃を覚えました。議会記録を読んでみると、広島と長崎に続き、米国の核実験で不幸にも被爆してしまった第5福竜丸事件にも触れながら、同時にソ連との冷戦体制と核兵器競争の中で、軍事大国化し、好戦的なイメージの米国ではなく、もっと平和に貢献する国のイメージを強調すべきであるといったことが述べられていました。広島と長崎の原爆体験の記憶がまだ新しい中、広島に平和的利用としての原子炉を建設することは、そこに救世主が舞い降りるという姿と重なり、キリスト教的なジェスチャーとなると主張していました。これは極めてアメリカの勝手な理屈であると思いますが、その発想が私にはあまりにも突飛であり、理解することができませんでした。
この主張は当時のアイゼンハワー大統領には受け入れられることはありませんでしたが、当時のアメリカ国内ではかなり議論にはなったようでした。また、原子力の平和利用といっても、その原発で作られたプルトニウムから核兵器の製造の可能性を匂わすような資料もありました。1950年代の原子力をめぐる日米関係が現在にも影響していると思われるが故に、日本の原発問題を考えていくためには、1950年代の米国資料は鍵であり、きわめて重要であると思います。 (YN)