米国の炭酸飲料水について

日本でもコカ・コーラ、ぺプシ・コーラ、ジンジャー・エールなどの炭酸飲料水は、よく飲まれているかと思いますが、米国ではこうした炭酸飲料水の歴史はとても長く、今も多くの人々に飲まれています。感謝祭やクリスマスなどのホリデーシーズンになると、ビールやワインなどのアルコール飲料とともに、こうした炭酸飲料水もよく買われています。ボトルで1本ずつ買うこともできますが、やはり1ダース単位の缶を買う人々の方が多いと思います。私個人は、ほとんど飲まないのですが、自宅で友人や親類を呼んで、ハンバーガーやバーベキューなどのパーテイを行うときには、そうした肉料理と炭酸飲料水が合うので、買うこともあります。

 

 米国では、炭酸飲料水は、直訳的には、カーボネイテイッド・ドリンクス(carbonated drinks )または、カーボネイテイッド・ベバリッジズ(carbonated beverages )ですが、通常は、ソーダ(Soda)、ソーダ・ポップ(Soda pop)、またはソフト・ドリンクス(Soft drinks)などと呼ばれています。

 

 米国では、炭酸を作る技術は、すでに1760年代にあり、1789年には スイスで ジェイコブ・シュウェップ(Jacob Schweppe)が、ミネラルウォーターに炭酸を入れた飲み物を販売し始めました。19世紀に入ってから、その炭酸飲料に、甘味料を加えるようになり、1870年代に入って、現在でもお馴染みの、コカ・コーラやペプシ・コーラばども出てきました。(参照:Bellis, Mary. "The Troubled History of Soda Pop and Carbonated Beverages." ThoughtCo, Aug. 26, 2020, https://www.thoughtco.com/introduction-to-soda-pop-1992433 )

 

米国の文化を語るうえで、この炭酸飲料の歴史も重要なものであるかと思います。今回は、そうした炭酸飲料に関わる資料をご紹介したいと思います。

 

下記の写真は、米国が、太平洋戦争に突入する以前の、1940年のカリフォルニア州のオークランド市の高校生たちの昼休み時間の写真です。5セントの豆料理と一緒に、キャンデイとコカ・コーラを買い、そしてタバコを吸うといったものは、当時の米国では典型的なスタイルであったようです。

 

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米国の夏時間と冬時間について

米国には、”スプリング・フォワード、フォール・バック“(Spring forward, Fall back.:春に時間を進めて、秋に時間を戻す)という言葉で表されるように、 季節によって、スタンダード・タイム(Standard time: 冬時間)とデイライト・セイビング・タイム(Daylight Saving Time: DST:夏時間)という2つの時間帯を使い分けます。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、毎年3月第2日曜日の午前2時に時計の針を1時間進めて午前3時とします。その時から、11月第1日曜日の午前2時前まで続き、その日の午前2時には時計の針を1時間戻して午前1時にします。

 

現代のコンピュータ、スマートフォン、テレビなどは自動的に、この時間帯に適応しますが、デジタルではない時計や機器においては、手動であらためて設定を変えなければなりません。

 

世界を見ると、この夏時間と冬時間のシステムを使っているのは、米国だけではなく、カナダ、イギリス他の北米地域やヨーロッパ諸国他を含む70か国以上になります。(参照:Daylight Saving Time Statistics from Time and Date:https://www.timeanddate.com/time/dst/statistics.html

 

もともとは、に日照時間が冬と夏とでは異なるため、日照時間が長い間はできるだけ人間の活動をできるようにし、エネルギーを節約するという目的がありました。現代では、仕事のあとにも買い物やレストランに出かけるなどのいろいろな消費活動を促進することにもなり、結果として、経済効果を上げることになるといったことになっているかと思います。

 

今回は、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)にちなんだ資料をご紹介したいと思います。

 

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エリザベス女王と米国の歴代大統領の写真

エリザベス女王が亡くなってからすでに2カ月以上が経ちました。彼女が、女王に即位した、1952年2月6日から、亡くなった2022年9月8日までの70年間の時代においては、様々な世界のリーダーとの交流があり、米国の歴代大統領との交流も大事なものであったと思います。また、彼女が生まれたのは1926年4月21日であり、この1926年は日本では昭和元年でした。その意味では、彼女が生きた時代の大半は、日本の昭和の時代(1926-1989年)と重なり、第2次世界大戦と太平洋戦争を生きてきた私達の祖父母や父母達が一生懸命生きてきた時代とも重なります。

 

さて、今回は、エリザベス女王と米国の歴代大統領の交流の写真をご紹介したいと思います。生涯を通じてエリザベス女王は、トルーマン大統領から現在のバイデン大統領までの14人のうち、リンドン・ジョンソン大統領を除く13人の米国大統領と会いました。

 

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米国国立公文書館にある日本兵捕虜関係の写真

今年に入ってから、米国国立公文書館は3月1日から、再開し、アポ制度を前提としながらも現在も安定した開館を続けています。やはり実感することは、そこで原資料を閲覧することがどれほど貴重であり、素晴らしいことであるかということです。これまでの様々なプロジェクトを通じて、テキスト資料、写真資料、動画資料、マイクロ資料、空中写真資料などいろいろな媒体資料を見てきましたが、特に写真資料や動画資料は一目瞭然でわかるので、こうした資料はもっともっと多くの方々に見ていただけたらよいなと思っています。

 

今回は、この米国国立公文書館にあるたくさんの日本兵捕虜関係の写真からいくつかをご紹介したいと思います。写真のキャプションは当時の米軍が作成したものであるため、現在では不適切とされるようなことばが入っていますが、ご了承していただければと思います。

 

下記は、フィリピンのルソン島のカラバロ山周辺で投降した日本兵の写真です。たくさんの米兵達に囲まれながら、彼らから与えられた食べ物を食べています。

 

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戦争と図書2

前回の第1次世界大戦中の戦争と図書に関する記事に引き続き、今回は、第2次世界大戦及びその後の時代に焦点を当ててみたいと思います。

 

下記のポスターは、第2次世界大戦中のポスターの一つで、ドイツ・ナチスによる、大量の本の焚書(ふんしょ)―当時のナチズムの思想に合わないとされた書物が焼き払われたことを題材にして、「本は、戦争において武器である。」として、徹底的に戦うことを決意した、フランクリン・ルーズベルト大統領の言葉を引用しています。

 

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戦争と図書 

皆さんは、下記のポスターを見たことがありますか。これは、第1次世界大戦中に作成されたものです。数年前に、ある資料調査で、ペンシルバニア州の カーライル(Carlisle)にある米国陸軍の歴史研究施設である、米国陸軍遺産教育センター(U.S. Army Heritage and Education Center:USAHEC)に行きました。その日の調査を終えて、館内の博物館の展示を見て米陸軍の歴史を学び、その展示の出口にあった土産店も見て回りました。その時に、このポスターも売られているのが、目に留まり、早速買ってしまいました。このポスターの絵の様子から、第1次世界大戦中のものであることはすぐわかりましたが、「戦場に赴く、または戦場にいる兵士」と 「たくさんの本」とが結ぶつくイメージは、当時の私の頭の中にはなかったので、その意外性がとても印象的でした。しかしながら、実は、戦争の時代と図書は、密接な関わりがありました。今回は、第1次世界大戦の時代に焦点を当てて、関連する写真資料をご紹介したいと思います。

 

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戦後まもなくの子ども達

米国国立公文書館では、これまでいろいろなテーマで資料調査を行ってきましたが、そうした過程の中で、戦後の子ども達に関する写真を目にする機会がたくさんありました。今回は、そうした子ども達に関する写真についていくつかご紹介したいと思います。

 

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米国国立公文書館のと特許関係の資料から

私は昔、米国の特許やトレードマークの申請を扱う弁護士事務所で働いていたことがありました。特許の申請から特許を得るまでに米国では20か月から25か月くらいかかります。申請対象となる製品やトレードマークには、実に多様なものがありました。毎日、米国内はもちろん、日本や韓国他の国々からのたくさんの申請書類があり、それぞれの分野の専門家でもある弁護士達を事務的業務をサポートするというリーガルアシスタントの仕事は、毎日、昼食時間をまともに取れないほどのすさまじく忙しいものでしたが、特許やトレードマークに関していろいろなことを学ぶことができたと思っています。

 

さて、米国国立公文書館の資料の中には、特許及びトレードマーク関係の資料群(RG241:Records of the Patent and Trademark Office, 1836 – 1978)があります。これらの中には、とても楽しい資料がありますので、今回はそれらをいくつかご紹介したいと思います。

 

 下記は、1920年4月にイリノイ州のシカゴ市にあったキャンデイ会社による特許の申請を行ったときの資料の1部です。この会社のキャンデイのラベルは、おとぎ話に出てくるキャラクターがパレードをしている素敵なデザインになっていると思います。このキャンデイ会社の申請書が、1920年4月15日に米国特許オフィスによって受理されてから、4か月後の8月16日には、すでに承認されたことがわかります。

 

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米国国立公文書館にある漫画資料から

2022年もあっという間に4月を迎えてしまいました。2020年の3月からの米国公文書館の閉館は、1年と半年続くことになりました。2021年の8月から限定再開をしましたが、デルタ株の感染者が上昇したため、その月末には閉館しました。3か月後の11月半ばから再び再開しましたが、クリスマス前にまたもや閉館してしまいました。2022年は、より安定した再開が強く望まれています。(2022年3月より限定的開館となりました。)

 

さて、今回は、米国国立公文書館にある漫画資料をいくつかご紹介したいと思います。下記は、チャールズ・アーネスト・グラスリー(Charles Ernest Grassley)というアイオワ州の上院議員を題材にした風刺漫画です。彼は1981年から現在まで上院議員を務めています。 2016年、オバマ大統領は、メリック・ブライアン・ガーランド(Merrick Brian Garland)を 連邦最高裁判所判事に指名しましたが、上院で共和党議員達が承認投票を行うことを拒んだだめに、ガーランドは就任できなかったという経過がありました。その時の風刺を描いた漫画が、下の漫画です。自分の仕事をしないことが、一番の仕事であるとして、かなり笑える漫画だと思います。また、それに関連して、オバマ大統領がりっぱで穏健で中道派であるガーランドを連邦最高裁判所判事を指名したことに対して、共和党側が、それは認められないとしている漫画です。

 

当時はいろいろありましたが、2021年3月、ガーランドは、バイデン大統領の指名を受けて、米国司法長官に就任しました。

 

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ドーナッツの歴史―1

ドーナッツは 日本でも、手軽なスナックとして多くの人々にお馴染みなものであると思いますが、アメリカ合衆国でもドーナッツは、昔から朝食や小腹を満足させるスナックとして、とても人気があります。

 

ドーナッツの起源は、もともとは、オランダ語のオリークック (olykoeks) というもので、英語では”oily cakes”となり、油でできたケーキを意味したそうです。現在でもオランダでは、オリーボーレン(oliebollen:油で揚げたボール)と呼ばれる、卵と小麦粉と牛乳と酵母で混ぜたものを油で揚げたものがありますが、それは オリークックという名前から次第に変化したようです。(参照:The History of the Doughnut:A look back at the men, women and machines that made America’s favorite treat possible:https://www.smithsonianmag.com/history/the-history-of-the-doughnut-150405177/

 

米国で、ドーナッツが、本格的に普及したのは、第1次世界大戦中のことでした。それは、ザ・サルベーション・アーミー(The Salvation Army:救世軍)や赤十字などの組織の女性メンバーによる、兵士達への慰問の際にドーナッツとコーヒーを届ける支援活動がきっかけでした。

 

ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)という組織の始まりは、1865年に、イギリスのウィリアムブースという、キリスト教プロテスタントのメソジストの牧師と妻の、○○が、犯罪やアルコール中毒、貧困や失業など当時地域に蔓延していた社会問題の改善に取り組む運動を始めたことに由来します。この運動が、のち、ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)と呼ばれるようになり、米国や日本他、様々な国でもその運動が展開されるようになりました。それは、現在でも続いています。

(参照:The Salvation Army USA: https://www.salvationarmyusa.org/usn/, 救世軍:https://www.salvationarmy.or.jp/about/history )

 

米国国立公文書館には、ドーナッツに関する写真資料が いくつかあります。以下にご紹介するのは、今から100年以上前の写真です。第1次世界大戦中は、ドーナッツを大量生産できるような機械はまだなく、めん棒を使って、生地を平らにして、とドーナッツ型で型を取って、油で揚げていました。

 

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アメリカンインディアン

アメリカンインディアンは、1492年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達するよりも以前にアメリカ大陸に住んでいた先住民を示し、アメリカ合衆国の先住民の大半を占めます。ワシントンDCにもアメリカンインディアンの博物館 (National Museum of the American Indian) があり、沢山の写真や資料を見る事ができます。(参照:https://americanindian.si.edu/

 

*「アメリカンインディアン」ということばについては、ここでは、この博物館のサイトで提示されている用語の定義に従いました。(参照:What is the correct terminology: American Indian, Indian, Native American, or Native?

: https://americanindian.si.edu/nk360/didyouknow#topq2

 

アメリカンインディアン歴史はとても長く、米国国立公文書館をはじめ、他の歴史資料館でも沢山の資料を保管しており、現在でも多くの研究者によって研究は続けられています。

このブログでは1900年以降の写真を時系列でいくつか紹介します。(参照:https://www.history.com/topics/native-american-history/native-american-timeline

 

 

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戦争中の日系収容所の子ども達

今年2022年は、戦後から77年目を迎えます。今は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の問題で日常生活の維持もままならないほどですが、こうした未曽有の現在の状況も、形はもちろん異なっても、非日常的な毎日に必死に対応しなければならないというところでは、戦争の時代と重なるところがあるのではないかと感じています。

 

1941年の12月に太平洋戦争が勃発し、翌年の1942年の春以降、当時米国に住んでいた多くの日本人や日系米国人のうちの約12万人が戦争が終結するまで、アイダホ州、アリゾナ州、アーカンソー州、カリフォルニア州、コロラド州、テキサス州、ユタ州、そしてワイオミング州の合計8州 (ハワイを除く)において、全11カ所にわたって設置された日系人収容所に強制的に収容されることになりました。(参照:日系アメリカ人強制収容所の概要:全米日系人博物館:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html)

 

今回はそうした収容所で生活を余儀なくされた人々のうち、特に子ども達の様子に関する写真をご紹介したいと思います。

 

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