手紙での交流を重ねたゴードン・W・プランゲ教授と淵田美津雄

メリーランド大学のホーンベイク図書館にはゴードン・W・プランゲ教授の個人資料が所蔵されています。プランゲ教授の資料調査を通じて、プランゲ教授が人との交流をいかに大事にし、真珠湾攻撃に対して大きな興味を持っていたかということがわかります。彼は真珠湾攻撃に関する本を何冊も出していますが、そのためにアメリカと日本のそれぞれの関係者である多くの元軍人や民間人へのインタビューや、何通もの手紙の交換、また時には相手の元にまで出向いて面会し情報を収集していたことがわかります。

 

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ゴードン・ウィリアム・プランゲと千早正隆

アメリカでは予算案の期限内成立が見送られたため、10月1日から政府機関の一部がシャットダウンされました。私たちが調査のため通っている米国国立公文書館も閉鎖されてしまったため、シャットダウン期間中はメリーランド大学のホーンベイク図書館へ行き、ゴードンプランゲペーパーについて調査をしてきました。

 

ゴードンプランゲペーパーは、メリーランド大学で歴史学を教えていたゴードン・ウィリアム・プランゲ博士が太平洋戦争、特に真珠湾攻撃に関する研究のために収集した、日本海軍部隊が戦時中に書いた日記や地図、新聞記事、写真、真珠湾攻撃に関する重要資料のコピー、アメリカと日本の軍人や民間人に面会をして行ったインタビュー内容、関係者とやり取りをした手紙などを含む膨大な資料のコレクションです。

 

プランゲ博士はメリーランド大学で教授として教壇に立っていましたが、1942 年にメリーランド大学を休職しアメリカ海軍に入隊、1945年には占領軍の一員として日本へ赴任します。太平洋戦争終了後はマッカーサーの下で歴史課長・歴史室長を務めました。この時、多くの旧日本軍人や民間人関係者にインタビューを行いました。また、アメリカに帰国後も太平洋戦争に関する研究を続け、『トラトラトラ 太平洋戦争はこうして始まった』など、多くの著書や論文を発表しました。

 

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終戦後の日本~米国国立公文書館写真閲覧室より~

第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本ですが、政治的な内容ではなく、当時の一般市民の生活に関連して、米国国立公文書館に収められているたくさんの写真の中から三枚の写真をご紹介したいと思います。

 

まず、戦後の日本国民が餓えを凌ぎ、逞しく生き抜いた写真を紹介したいと思います。この写真の他にも、廃墟の後の土地には雑草はなく、すべて野菜や果物で覆われていた写真もありました。戦争を知らない時代に生きている私にはとても印象に残った写真の一つです。

 

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米国公文書館の資料から知るマリリン・モンロー

マリリン・モンローは誰もが知る世界的女優です。米国国立公文書館には彼女の写真や映像資料が数点残されています。

 

マリリン・モンローはNorma Jeane Baker(旧名Norma Jeane Montenson)として1926年6月1日に誕生しました。母親が精神的に不安定なため面倒を見ることができず、幼少からずっと他の家庭を転々としていました。高校生の時に知り合い付き合っていた青年と、当時の養父母に押し付けられるように結婚させられました。

 

高校を中退し家庭に入りましたが、夫が米国商船隊に入った後、航空部品工場で働き始めます。その時に、陸軍雑誌「Yank, the Army Weekly」に掲載する写真を撮るために派遣されたDavid Conoverに見出されモデルになることを勧められます。これが芸能界に入る最初のきっかけとなりました。ちなみに、このDavid Conoverの上司は後に第40代米国大統領となる、ロナルド・レーガンでした。(当時は大尉) 夫は妻がモデルをするのを好まず、結婚生活は4年で終わりました。

 

その後、長く下積みを重ねますが、1952年以降雑誌や映画に頻繁に登場します。1953~54年に「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「億万長者と結婚する方法」「7年目の浮気」に出演し、その知名度を不動のものとします。

 

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第2次世界大戦期のポスター資料

今回は米国国立公文書館が保存しているポスター資料の紹介をしたいと思います。米国国立公文書館の5階は写真資料の閲覧室ですが、実はポスター資料のスライドも見ることが出来ます。ポスター資料はカラフルで人目を引くものが多く、様々なテーマから作られています。ポスターが作られた時代背景を垣間見ることができ、スライドを見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。特に第2次世界大戦時期のポスターは興味深く、公債を買うように呼びかけるもの、 武器増産を呼びかけるもの、愛国心を宣揚するものや、プロパガンダ、兵隊募集のためのポスターが多いように思います。

 

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硫黄島の地を踏んで

米国国立公文書館における米軍資料戦没者関係調査の実績をもとに、硫黄島日米合同慰霊祭及び日本側追悼顕彰式への参加に対するご招待を硫黄島協会から有難くいただくことになり、今年3月13日に上司とともに私は硫黄島に行く事になりました。3月12日夕方の結団式に参加、また其の後の硫黄島協会幹部の方々との夕食交流会に参加し、硫黄島協会の幹部の方々の貴重なお話を通じて、戦後から現在に至るまでの長い間、家族を見つけたい、また一体でも多くのご遺骨を家族のもとに帰してあげたいという切実な思いで、この遺骨収集事業に一生懸命関わってこられたことをあらためて学びました。

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鹿児島と神風特攻隊

メリーランド州にある米国国立公文書館では、機密指定を外され解禁となった太平洋戦争に関連した軍事テキスト資料、フィルムや写真資料がたくさん保存されており、私達はその大変貴重な資料を実際手に取り、毎日資料調査をすることができます。

 

太平洋戦争といえば、日本海軍機動部隊からの第一波、第二波空中攻撃隊による真珠湾への奇襲攻撃から始まった事が知られていますが、鹿児島出身の私は神風特攻隊を思い浮かべます。特攻隊とは太平洋戦争末期に編成された特別攻撃隊の事ですが、私の父方の祖父は特攻隊員だったそうなのです。特攻基地というと旧陸軍知覧特攻隊が有名ですが、鹿児島には太平洋戦争末期、知覧、国分、串良、鹿屋と4箇所の特攻基地があり、海軍の最大の特攻基地であった鹿屋からは戦争末期のたった82日間で908名の尊い命が沖縄に向け飛び立ち、二度と帰ってくることはなかったそうです。この鹿屋基地は父の出身地の隣町であり、祖父はここから飛び立つ予定だったそうなのですが、健康診断で許可が下りなかったのか、病気になったのか、今となっては確かめるすべはありませんが、とにかく祖父は飛ばずに生きて帰ってくることができました。父は戦後生まれですから、この時に祖父が飛び立っていれば私は生まれていなかったことになります。

 

米国国立公文書館5階には写真の閲覧室があります。そこでは第二次世界大戦や戦後の日本占領に関する写真を含め、90万枚以上の写真を閲覧することができます。その中には私の出身地、鹿児島や鹿屋基地の写真もありました。

 

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原爆ドームの思い出

米国国立公文書館にはテキスト資料の他、地図資料、映像資料、写真資料など色々な資料が所蔵されています。今回、久しぶりに広島の原爆投下に関連する写真資料を見る機会がありました。

 

私は広島県の出身です。幼い頃から家庭でも学校でも平和学習というものにとても身近な環境で育ってきました。学生の頃は、頻繁に行われる平和学習や広島原爆資料館への遠足、夏休みの登校日8月6日(原爆投下の日)に学校で黙祷を捧げることなどは当たり前の事と思っていました。

 

しかしながら、広島市民として原爆投下は忘れてはならないことであり、その事を子供の頃からしっかりと学ばせ、後世へと繋いでいくという強い思いの中で全てが行われていたのだということを、最近他県の出身者の方々と会話する中で気付きました。そしてまた広島に生まれた故の経験であると強く感じさせられました。

 

広島でも学校によって平和学習のありかたは様々だとは思うのですが、私が一番覚えている平和学習の内容というのは原爆ドームに関する学習です。一般の方には原爆ドームの本当の名前が、「広島産業奨励館」というよりも、やはり原爆ドームといった方がすぐに分かると思うのですが、平和学習の中のひとつに原爆ドームの建築方法がありました。あの建築方法であったからこそ原爆投下にも耐えられたという風に子供心にもしっかりと記憶しています。

 

広島産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しました。広島市内の建物は一瞬にして倒壊したといわれている中、数少なく残っている他の建物の中でも唯一外観が分かる形で残ったといわれている建物なのですが、このドーム型の建物であったため、爆風が上方からほとんど垂直に働いたために建物の中心部(ドームの部分)は倒壊を免れたと言われています。原爆が投下される前から、この建物の出現は当時の広島市民にとって大胆で非常に珍しく広島名所の一つに数えられたということです。その姿は原爆投下後の変化はありましたが、現在に至るまで原爆資料館と並んで広島名所の一つのままその地に残っています。 (MJ)

 

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ミッドウェイ博物館

3月21日~24日にかけて、アジア学会(Association for Asian Studies)がカリフォルニア州サンディエゴで開催されました。

アジア学会はアジアに関する社会問題や歴史、芸術など多岐に渡ったテーマについて、400件近いセッションを行います。ここ数年ニチマイもアジア学会にブースを出し、出版物や業務内容について紹介をしています。

また、セッションに参加し、仕事に関する知識を深めるとともに、今後の研究の方向性やテーマなどに関しての情報収集が出来ました。大変有意義な学会参加でした。

 

アメリカ西海岸にあるサンディエゴは、私が住んでいるアメリカ東海岸と違い、気候も暖かく、ヤシの木がまっすぐ並ぶ美しい街並みです。また、サンディエゴは米軍の海軍基地になっており、サンディエゴ港には沢山の空母艦や軍艦が停泊しています。

その中で特に目を引くのは、巨大な空母艦ミッドウェイです。ミッドウェイは1945年に就役し、1965年にはベトナム戦争に参戦、1980年代には横須賀基地を母港として湾岸戦争にも参戦しました。1992年に老朽化のため退役が決定し、その後は空母博物館として生まれ変わり、サンディエゴで一般公開されています。全長は296mもあり、近くからではカメラに収まりきらない程の大きさです。

 

 

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エルビスと米国国立公文書館

皆さんは「エルビス・プレスリー」が徴兵され、陸軍に入隊した経歴を持っていた事をご存じでしょうか?

当時アメリカには徴兵制度があり、エルビスのもとにも徴兵の知らせが届きます。エルビスは若者、特に女性の熱狂的ファンを得ていましたが、一般的には眉をひそめられることが多かったようです。

そこで、彼のマネージメントは、この徴兵を一般社会からのイメージアップに利用しようと考え、入隊後娯楽専門の部門に配属させる等の策を練っていたようです。また、受け入れ側の陸軍、海軍からはエルビスを特別待遇で受け入れたいとの要望がありました。

しかし、エルビスはあくまでも一般兵士としての入隊を希望し1958年3月24日~1960年3月5日まで陸軍に在籍しました。

 

これは入隊の際の本人直筆サイン入りの書類です。

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サンフランシスコ公文書館

米国国立公文書館(National Archives and Records Administration、NARA) の施設はワシントンDCにある本館をはじめとし、地域文書館やレコードセンターなど、アメリカ各地に30箇所以上あります。NARAが保存する資料はARC(Archival Research Catalog)でオンライン検索が出来るようになっています。キーワードを入れると、そのキーワードに関係した資料の情報が出てきます。通常私たちはアーカイブスⅡとも呼ばれ莫大な資料を保存しているカレッジパークの公文書館で調査をしています。しかし、調査内容によっては他の公文書館などにも行く必要が出てきます。

 

今回は初めてサンフランシスコ郊外のサンブルーノにある公文書館に行ってきました。下記のウェブサイトがサンフランシスコ公文書館の情報になります。

http://www.archives.gov/san-francisco/

 

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米国の戦没者遺骨収集について

昨年の9月27-28日の2日間にわたり、カリフォルニア州のサンデイゴにおいてJPAC(Joint POW/MIA Accounting Command:米国戦争捕虜及び戦争行方不明者遺骨収集司令部)の主催によるシンポジウムに参加しました。

 

JPACとは、米国防省の指揮下にあるもので、過去の戦争や紛争によって戦争捕虜(Prisoner of War)及び戦争行方不明者(Missing in Action )となり、かつての戦闘地またはかつての敵国領内にいまだに眠っている米兵の遺骨の所在を探索し、遺骨を収集する事業を担っている組織です。歴史学者、考古学者、人類学者 などの様々な分野の専門家及び米軍各部隊の専門家によって組織され、米兵遺骨の所在の捜査及び分析(Investigation&Analysis)、発掘(Recovery)、身元確認(Identification)、そして、家族のもとへの返還と完了(Closure)までの一連の過程を担っており、現在は第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び冷戦時のそれぞれの米兵捕虜及び戦争行方不明者の遺骨を捜索しています。この組織に関する詳細情報はこの組織のサイト、http://www.jpac.pacom.mil/ にあります。

 

第2次世界大戦の太平洋戦線における米兵の戦没者遺骨収集事業において、近年の米国内の民間団体の活躍、貢献度は大変著しいものとなっています。今回のシンポジウムはこうした民間団体との相互理解や情報交換を図り、また戦没者遺骨収集のガイドラインの整備をともに考えることを通じて、よりよい成果を出し、さらに遺骨収集事業を推進していきたいという目的の為、JPACが米国内の戦没者関係調査及び発掘を行う民間団体を招聘したものでした。ニチマイは、米兵の遺骨収集事業には直接関係ないのですが、これまでの日本の戦没者関係資料調査においての実績がJPACの歴史家によって高く評価された結果、このシンポジウムに招待されることになりました。

 

100名ほどの参加者で開催された2日間のシンポジウムは、朝から夕方までのセッションがぎっしり詰まったものでした。その内容は、JPACとその他の米国内の戦没者遺骨収集関連組織との関係について、米兵遺骨情報の収集と情報分析の仕方、特定の米兵遺骨の発掘にいたるまでの慎重な準備と調査、現場での発掘を専門とする部隊の詳細、考古学的なアプローチを通じての身元確認までの慎重な分析と鑑定過程、戦没者事業に対する一般の見方及び期待について、JPACが抱える問題点と課題、民間団体による遺骨収集事業推進においての法的手順といった多岐にわたるものでした。こうしたシンポジウムに初めて参加した私はあまりの多くの情報に圧倒される思いでした。しかしながら同時に米国の戦没者遺骨収集事業が、いかに専門的、科学的、組織的、かつ総合的に行われているかを実感せずにはいられませんでした。また、発掘に関しても、海兵隊、海軍、陸軍の違いを超えて、様々な軍部隊の専門家が歴史学者や考古学者または人類学者とともに行動をともにしながら、遺骨が存在する場所(時には奥深い山であったり、海底であったり、軍隊の特殊な訓練を重ねた人間でなければ探索はもちろん、その場所に行く着くことができないような場所)に行き発掘作業にあたるということも衝撃的なことでありました。

 

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